異議申し立て描き続け――没後30年「大佛次郎研究会」発足にさいして

村上光彦

 四月三十日のご命日を迎えると、大佛次郎先生が亡くなって満三十年となる。 大佛文学愛好者が集まって、この機会に大佛次郎研究会を発足させることにした。先生の晩年の十五年間、 親しく接した者として感慨が深い。

 先生は一九五八年と六一年にパリを訪れている。二度目には、 パリ・コミューンの現場を歩いて資料を収集するという主目的があった。 パリ在住の洋画家佐藤敬さんが、二度とも専属運転手のように世話をした。 コミューンの実地検証に付き添った日々のことを、佐藤さんは 「或る一時をコンミューヌの歴史にささげたような気持になったものです」と書いている。

 一九六八年九月、ぼくはパリへ行ったとき、 先生に託された日本茶を佐藤さんに届けた。「五月革命」の名残で、 パリの街頭のあちこちに警官がたむろし、青黒い護送車が待機し、 舗装用の栗石が掘り返されていた。デモ隊が投石に使わないようにするためだ。 とあるカフェで佐藤さんと落ち合ったとき、話題はおのずと若者の造反運動に向かった。

 「参加」と「異議申し立て」が彼らの合言葉だったと、 佐藤さんはそのとき教えてくれた。だが彼らに限らず、変革期に際会した若者はいつでもどこでも、 これと同じ行動原理を奉じてきたのではなかろうか。

 大佛先生の作品にも、この姿勢を貫いた人物がしばしば登場する。 その先頭に立つのが鞍馬天狗だ。彼は幕府に異議を申し立て、討幕運動に参加した。 ただ、忘れてはならないが、彼は独立独歩の浪人(自由人)だ。内部から運動を批判し、 暴力的手段を大義の名で正当化することを許さない。

 『赤穂浪士』の大石内蔵助は会議の席上、 藩主の刃傷にたいする幕府の不公平な措置は悪意から出たのではないか、と言いだす。 彼は「武士道は御公儀のある前からあったものだ!」と叫んで、気骨に富む同志たちを謀反に参加させる。 この発言とともに、討ち入りを目指す忍苦の日々が始まったのだ。

 パリ・コミューンの素地は、二十年間にわたる第二帝政の独裁政治のもとで培われた。 『パリ燃ゆ』第一部は「X・ユゴー」と題され、第二共和政の大統領ボナパルト公爵 (のちのナポレオン三世)によるクーデターが詳細に記述してある。ここで作者は、 未発の反抗が伏流水となった事情を探ったのだ。

 詩人ヴィクトル・ユゴーはクーデターの報に接すると、 街頭へ出て「ルイ・ボナパルトは、叛逆人だ」と民衆に呼びかけ、 「市民諸君、諸君は片手で諸君の権利を握り、銃を執りたまえ」と訴える。ユゴーにはこういう自信があった。 大統領が事実上の強権を手中に握っていようと、自分は議員として共和政の法を体現している、と。彼はこうして、 強権に異議を申し立てると同時に、共和政支持の戦列への参加を表明したのだ。

 このような行動原理に立脚する群像を活写した作品だから、 『パリ燃ゆ』は六○年安保闘争に続く時期に多大な反響を呼んだ。

 しかし、この態度は革命などという大事件でなく、 もっと日常的な次元でも必要になるものだ。たとえば自然破壊とか、環境汚染とか、 人間らしく生きていこうとする市民にとって、黙視できない状況が身近に生ずることがある。 先生の発言に励まされて乱開発を阻む市民選動が展開され、古都保存法成立のきっかけとなったことは忘れがたい。

 鞍馬天狗の生みの親については、みんなで研究すべきことがまだたくさんある。



*『朝日新聞』2003年3月24日(月)夕刊に掲載